けもけむのふらふら日記

何のとりえのない理系大学院生が活動記録を残したり、戯言を吐いたり、知ったかぶったりするよ。

下流志向 ―― 内田樹, 2009 の第一章

 

日本人は真面目で勤勉という評価があるけれど、それはもうとっくの昔の話だと思う。むしろ、日本人ほど勉強嫌いな民族はいないのではないか。だれもが「勉強したくない」と言う。一生懸命勉強する人を「ガリ勉」などと揶揄する。僕が生きてきた限りでは、勉強することがダサいとでも言いたげな風潮が日本中をずっと取り巻き続けていると思う。

 

本書「下流志向」は、「学ばない子どもたち 働かない若者たち」とサブタイトルを持ち、なぜ日本人は勉強しなくなったのか、なぜ働かなくなったのかということについて考察した本だ。

非常に学ぶべきことが多い本なので、章ごとにまとめようと思った。

 

第一章では「学びからの逃走」と称し、なぜ日本人は勉強しなくなったのかという問いに対して、著者は社会的背景をもとに非常に興味深い考察を展開している。

 

答えは、「子供がいきなり消費主体として社会に参加するようになった」からだという。

 

高度成長期より前、家事労働は大変な重労働だった。だから、家庭では子どもは労働力としてカウントされていた。このころの子どもは、親の手伝いという形で労働をすることによって社会の一員として認められるという、「労働主体」だったのだ。

 

一方で、洗濯機や調理器具などが発明されてくると家事労働の負担は大幅に減り、子どもが労働する必要がなくなってしまった。そして少子高齢化の影響もあり、子どもは親や祖父母からお小遣いをもらう。働くことなくお金を手にするようになったのだ。そして自由にコンビニやスーパーで買い物をする。つまり、いきなり「消費者」として社会に参加するようになった。つまり、「消費主体」として人生をスタートする子どもが現れてきた。

 

消費主体になるということは、資本主義のプレイヤーになるということだ。早くも資本主義に参加してしまった子どもは、学校での授業を「商品」としてみる。おとなしく授業を受ける「苦役」という貨幣をチャラつかせ、授業はそれと釣り合うのかと、先生と取り引きをする。これが、「これを勉強して何の役に立つの?」という問いとして子どもの口から発せられるのだという。

 

そして、学び、勉強とは、時間的プロセスで、一方向の流れを持っている。勉強の前後で、人は別人になっている。そうなっていなければならない。

一方で、資本主義における等価交換の原理では、取り引きの前後で物の価値は変わってはならない。100円のおにぎりは取り引き前後で100円のままだから、100円と交換できる。

でも、消費主体として生まれてしまった子供は資本主義に巻き込まれている。だから、変化することを許されない。つまり、子どもは学びという「流れ」から全力で逃げることを強いられてしまう。

 

かなり端折ったけれど、日本人が勉強しなくなった原因はこのように述べられていた。「勉強は何の役に立つのか?」という問いは珍しくもないものだと思っていたけれど、裏にこのような背景があったとは眼から鱗だ。もちろん、これが100%正解というわけではなく、あくまで一つの説と捉えるべきだけど、非常に合点のいく理屈だと思う。

そして興味深いのが、子どもは「全力で」勉強から逃げているということ。一生懸命、勉強しないように努力している。そういう意味では、日本人は今も真面目で勤勉なのかもしれない。

 

万が一、僕が家庭を築いて子どもをもうけることがあったなら、子どもには労働主体として人生をスタートさせてあげたい。そうすれば、自然と子どもは自主的に勉強する人になるのではないだろうか。勝手に勉強し、勝手に良い成績を取ってくれば、僕はおそらく無尽蔵に子どもを褒めるだろう。そして褒められてうれしくなった子どもはまた勝手に勉強する。非常に良いサイクルだ。